タモリの『ブラタモリ』「終了するという話は局内にない」とNHK局員が否定、『タモリ倶楽部』終了も『Mステ』存続が濃厚な理由
もっとも、『ブラタモリ』を担当するNHKクリエイターセンターに所属する局員に聞くと、「終了するという話は局内にない」と、この説を一蹴する。
本当に年内で終了するのなら、既に後続番組の準備を始めなくてはならない時期。MCを務めるテレビ朝日系『ミュージックステーション』(金曜午後9時)の後任司会者も探し始めているはず。
そもそもタモリに引退するつもりはないというのがテレビ界の共通した見方。最大の理由は所属事務所「田辺エージェンシー」の田邊昭知社長(84)が現役で精力的に活動しているからである。
タモリの生みの親が漫画家の赤塚不二夫さん(享年72)であるのは知られているが、一方で育ての親は田邊氏にほかならない。赤塚さんは1975年、福岡から上京してバーで芸を披露していたタモリを一目で気に入り、衣食住から車、遊興費まで与えた。見返りは一切求めなかった。
翌1976年、タモリは田辺エージェンシー入り。赤塚さんと親交のあった構成作家・高平哲郎氏(76)の紹介だった。4か国語麻雀などタモリの話芸は新しかったものの、マニアックだったので、ほかの芸能プロは獲得に消極的だったが、田邊氏は高く評価したという。
この時、タモリは既に30歳。かなり遅いデビューだったものの、田邊氏のマネージメント力を背に人気者の座へ駆け上がり始める。
タモリは同事務所に所属した1976年から和田アキ子(73)が司会を務める日本テレビ系『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(1973~79年)にレギュラーで登場した。軽いお色気とドタバタ喜劇、歌が売り物のバラエティーで、小学生から大人にまで人気の番組だった。現在の50代以上の多くがタモリを初めて観たのはこの番組ではないか。
番組内でタモリは4か国語麻雀のほか、イグアナのモノマネ、ハナモゲラ語を披露。当時、人気者だったザ・ドリフターズや横山やすし・西川きよし、星セント・ルイスたちとは全く違う芸で、タモリの知名度はたちまち全国区になった。この番組の制作協力は田辺エージェンシーだったのである。
その6年後の1982年からは32年続いた『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)が始まった。タモリをMCに抜擢したのはプロデューサーだった故・横澤彪氏だが、番組のスーバーバイザーを前出・高平哲郎氏が務めていたことも起用の背景にある。高平氏と田邊氏にパイプがあったのは前述のとおりである。
鉄道や相撲などタモリの趣味を番組化した『タモリ倶楽部』の企画時も田邊氏の意向が反映された。なにしろ同番組はテレ朝と田辺エージェンシーの共同制作だったのである。
田辺氏の存在がなかったら現在はなかったと言っても過言ではない。これまで47年にわたって2人は二人三脚を続けてきた。今後もタモリは田邊氏と命運を共にするというのがテレビ界の見方なのだ。